おはなし


【歴史教科書に載ってない事綴り】H17.3
【建国記念の日(紀元節)(皇紀2665年)と道徳】H17.2
【よく神職は肉食をしないと思われてますが・・・】H17.1
「現代社会に対する神職からのメッセージ〜皇紀二六六五年を迎えるにあたり〜」H16.12
【家庭教育の柱】H16.10
【生死観・ケガレ・ハライ!?】H16.8
【教派神道って?】H16.7
【「古事記」って?】H16.6
【天武天皇と古事記の成立】H16.5
【ごろあわせ】H16.4
【甲申、平成16年のお話し】H16.1
【節分(豆のまえは?)のお話】H15.2
【ひなまつりの歴史】H15.3
【むずかしい教育基本法のおはなし】H15.4
【鯉幟のお話】H15.5
【若返りのお話】H15.6
【日本の文化】H15.8
【自然崇拝】H15.9
【ルーツ】H15.10
【イラクへの自衛隊派遣について】H15.11
【言葉遣い】H15.12


【歴史教科書に載ってない事綴り】
左系は共産、社会、日教組の方々で、ほとんどが護憲派です。現在の憲法・教育基本法を守
ろうとする方々です。戦後組織力が強くなったのです。
現憲法は、戦後占領軍が作ったと言っても過言ではないもので、作成に関わったアメリカ人で
さえ、「未だに変えてないの?」と言ってるくらいの酷い憲法だと思います。
まず、尊皇とは言えない憲法であり、自分の国を自分で守れない憲法なのです。左系の方々
は、天皇陛下が嫌いな方々と言えるだろうし、日本が他国に攻められようと、抵抗もせず「死ね
ばいいんですよ。」と言う方々です。アメリカの残したこの方々の壁によって現憲法は戦後変え
られずに今まで施行されて来たのです。外の国から見れば信じられないことです。
教育基本法も、戦後アメリカ主導で作られました。
道徳の項目が欠落している基本法、伝統文化を破壊する基本法、愛国心を育てぬ基本法な
のです。
国土を守るのに必要なことは、言葉、文化、領土、血族、精神ではないでしょうか?伝統も天皇
陛下の血族も言葉も破壊させられたら日本は日本でなくなってしまいます。
今の時代、日本においては戦争がなくて平和そうに見えますが、世界中で一番危機感を持た
なければならない時期でもあるのです。
根本的な平和を想像してみると今の日本は危なっかしいのです。

戦争当時、アジアは植民地化されていました。日本はアジアを代表して立ち上がったのです。
それしか道はなかったのです。大東亜共栄圏の確立におじいさん方は頑張ってくれたのです。
でも、弾数が違いすぎました。日本は敗れたのではありません。天皇陛下が「タエガタキヲタ
エ、シノビガタキヲシノビ・・・」と発したので、みんなは戦いを止めたのです。陛下のお言葉がな
ければ、おそらくごたごたどろどろと戦争が長引いたものと思われます。他地域での戦争と違
ってきっぱりと終わらせることが出来たのは、天皇陛下のお蔭としかいえないのは、マッカーサ
ーが一番感じたことだと思われます。
日本の勇気によって、アジアのほとんどの国は独立することが出来ました。
日本は憲法など根本から変えられ、どん底に落ち、堪え難きを堪える一方、アジア諸国は発展
し始めたのです。敗れたのは植民地を失った欧米諸国ではないでしょうか。
そういう意味で、日本は献身的な素晴らしい国だと思います。だから、憲法も日本独自の伝統
文化に合わせたものでなければならないと思うのです。基本法も、世界に誇る精神文化の継
承をなせるものにしなくてはならないと思うのです。
長くなりました。お疲れ様でした。

【建国記念の日(紀元節)(皇紀2665年)と道徳】 
紀元節といっても知らない方が多いかもしれません。 
神武天皇(日本の初代の天皇様です。)が 日本を平定して、橿原の地に天皇として即位してか
ら 2665年。当時を太陽暦で逆算すると2月11日にあたります。日本はこの日を建国記念の日
としています。紀元節には神武天皇の偉業を讃え、世界の平和を願う紀元祭を執行います。 
今年の紀元節での志は、戦後作られた教育基本法には道徳に関する項目が欠落していること
を理由に、いち早く改正し、道徳心の昂揚と伝統文化の継承の重要性を青少年に伝えようとい
うことでした。
神武創業のいにしえを偲ぶことは、いつでも自分が日本人であることに誇りを持つことが出来
ると思います。ところが、岩手の高校生は、3人に一人が「生まれてこなければ良かった」と考
えています。この状態を打破するためにも、日本人に生まれた使命を自ら見つけられるように
なってもらいたいのです。 

エルトゥールル号の話しをご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、紹介いたします。 
明治時代、トルコの船(エルトゥールル号)が、日本の海岸で難破しました。 
その付近の日本の住民は全力で救助活動を行いました。 断崖絶壁の危険な場所での救助活
動ではありましたが、 何人もの人を救い出したのです。 残念ながら亡くなった方は、丁重に葬
ったのです。 無事救助された人は、日本の軍艦でトルコまで送られていきました。 

トルコの国は親日派です。それはトルコの小学校教科書に日本人が全力で救助活動したこと
を取り上げているからです。トルコの子ども達は日本人の救出劇を誇らしげに思ってくれてい
るのです。知らないのは日本人だけかもしれません。日本人が死に物狂いで救助した勇姿
は、我々にとって、また、日本にとって、とても誇りに思うべきことだと思うのですが・・・。 

湾岸戦争のとき、フセインが「領空を飛ぶ飛行機を爆撃する」という宣言をしました。そのタイ
ムリミットに近づくにつれ、ターミナルに残されていたのは、日本人ばかり。日本政府の対応が
遅れ、なんともならなくなった時、2機の飛行機が・・・。トルコ航空でした。 
日本人を乗せ、日本へ。
明治のエルトゥールル号事件より100年が経過をしていましたが、航空会社は、エルトゥール
ル号の恩返しと。その当時の住民の行動が、100年も忘れ去られずに、後世の日本人を救っ
たのです。 

大切なのは、偉業を果たした先人を誇りに思うことだと思います。生きる意味を見つけ出せる
と思います。歴史や道徳は、そういう教科書でなくてはならないし、そういう教育基本法でなくて
は駄目だと思うのです。このまま、道徳心が欠け、伝統も消え、家族も崩壊していったら、それ
こそ生きる気力もなくなるのは目に見えているのです。だから今!考えるべきだと私は思って
います。将来の子どもたちに夢と希望と感動と生きる喜びを与えたいのです。 

【よく神職は肉食をしないと思われてますが・・・】
実は四足禁食は四足動物の肉を食べてはならないというものではなかったと思います。
676年天武天皇の時、我が国初の肉食禁止令の詔が下りました。犬、牛、馬、猿、鶏の肉食禁
止です。その理由は「犬は番犬の役に立ち、鶏は朝を告げ、牛は田畑を耕す、馬は人を乗せ
旅や戦に活躍、猿は人に類似しているから食べてはならない」というもの。でも、その肉食禁止
は恒久的なものでなく、期間が4月1日から9月30日までの農繁期に限定されていますので、農
閑期は肉食を行ってもまったく問題なく、農繁期であっても五畜以外の動物の肉は食べてもよ
かったということです。家畜の利用という功利的な視点に基づいて出されたものだと思います。
当時の生活様式は稲作を基盤としていたので、農耕儀礼を重視した結果としての肉食禁止と
考えることもできますが、絶対に肉食が禁忌として見なされていたとはいえないと思われます。 
古代・中世を通じて包括的な肉食禁止の禁忌はなかったと思いますが、仏教思想の影響で肉
食の否定につながっていく側面もあったかもしれません。
神道においては1487年に成立した『神祇道服忌令秘抄』で肉食によって発生する服忌を設定
しています。が、服忌期間を過ぎれば神社に参詣してもよいことになり、また日常生活での肉
食については触れられていないので、肉食が穢れであるとの思想はあまり神主方には定着し
ていなかったのではないでしょうか。 多少、神仏習合時代の仏教の影響があって祭典前には
四足の肉を食さなかった程度と考えられるのではないでしょうか。
しかし、神社によっては昔から、「これは食べてはいけない」(肉や野菜にこだわらず)というも
のが決まっているところもあります。
いずれにせよ、そもそもは家畜の有効的活用から始まったものだと思います。
ただし、日本人の体というか消化器が、西洋ほど肉食に向いていない所を見ると、著しく肉を
食していたとは思えないのです。やはり、日本伝統の食文化である野菜類の漬物、魚、海苔、
納豆、梅干などを中心に食生活が送られていて、今の時代にも適用できることだと思うので
す。質素でバランスの良い食事は日本の伝統文化の中に隠されていると思います。


「現代社会に対する神職からのメッセージ〜皇紀二六六五年を迎えるにあたり〜」      
 新年を迎えるにあたり、新たな気持ちで来年一年を臨む上で、私の述べることを、皆様もご
一緒に考えて戴きたいと思っております。
 まずは、現代の社会環境の状況を見てまいりますと、戦後の高度経済成長により表向きは
華々しく見えるものの(バブル崩壊後に至っても、諸外国から見た日本は未だに華々しいので
す)、経済優先の政策の中で失われてきたものも多々あるかと思います。占領政策時に作成さ
れた憲法や教育基本法などの法や制度は、現代に適応しない部分が多々あり、土台が揺らい
でいることは、誰の目から見ても明らかです。多少例を挙げれば、憲法は「万世一系の天皇陛
下を尊崇できないシステム」「自分の国を自分たちで守れないシステム」になっており、本当に
これが日本の憲法なのかと外国人が見ても思うだろうし、アメリカ自体が再軍備要請を提出し
てきた時にも、頑なに軍備再開しなかったことは、日本国憲法を作ったアメリカもさぞ揚げ足と
取られた気分だったに違いありません。戦後からの教育基本法は、「自虐史観」「伝統無視」な
ど到底日本を好きになる若い人は出てこないだろうと思わせる法です。医療に関しては、脳死
などの倫理問題に対して、科学的な見解や、利己主義的な解決に驚かされます。命には見え
ない力が働いており、宗教的情操の涵養が医療界にも求められてくると思います。全体的に見
ると、憲法の曖昧さや利己主義の行き過ぎが、問題を起こしているようにも思えます。
 このまま、法や制度の土台が揺らいだままならば、どうなるのでしょうか。日本が日本でなくな
るのではと、とても心配です。個人主義や利己主義は、ほぼアメリカからもたらされたものと言
っていいと思いますが、アメリカ自体はどうなのかと見てみると、やはり利己主義な国でありま
す。しかし、日本と異なるのは、かろうじて国教を大統領が示すことによって、その宗教信仰が
心を抑制しているのではと思うのです。心の抑制が出来ない日本の利己主義が一番危険なも
のと思われます。
 それでは、日本人はどうすればいいのでしょうか。実は、揺らいでいる法や制度の土台の底
には、悠久の時を重ねて、立派な土台と柱が存在しているのではないかと思うのです。戦後作
られた土台を壊してみると、見えてくるかもしれません。それには、もう一度、日本人である自
分を見つめ直す。家族を見つめ直す。地域を見つめ直す。日本を見つめ直す。その逆でもい
いんです。国の成り立ちから自分がどのように誕生したのかを探るのも、真の土台を見つけら
れるきっかけになると思います。
 平成十四年から、文部科学省の学習指導要領に小学六年社会について、「わが国の歴史や
伝統を大切にし、国を愛する心情を育てるようにする」が、組み込まれました。自分の住む国
を好きになることは、とても大切です。ご先祖様から受け継いできた伝統を継承することもとて
も重要なのです。
 毎年、春と夏、甲子園にて高校野球の熱い戦いが繰り広げられます。何故か、自分の住んで
いる故郷のチームを応援してしまう人が多いのではと思われます。それを「おらほ主義」(方
言:俺の方)と呼ぶ方もいます。自分の故郷チームが敗れると、地方で残っているチームを応
援し、更には、東西日本と分けて応援したり、自分の身近なチームを応援する。まさにオリンピ
ックなどで日本人が日本を応援するのはおらほ主義の方が多いからだと思います。個人選手
への応援が日本コールへと変わりますが、日本コールだけで終わらせるのではなく、本当に日
本が素晴らしい国なんだということに、気づいてもらいたいのです。
揺らいでいる土台を解体し、真の柱に沿った法や制度を設立することが、素晴らしい国日本の
再発見の近道かもしれません。
 万世一系の天皇陛下を戴く国、日本に住めるすべての民が陛下より幸福を願われておりま
す。陛下自らも祭祀を執り行い、国の安泰を祈られております。日本の伝統文化・民族の根源
である天皇が祈りや祭りを通して、この国が成り立ってきたことは言うまでもありません。日本
独自の神道に大勢の人が触れて、そして、大勢の人が信仰していくこと、本当は当然のことな
のだと思いますし、知らずに触れていることもたくさんあるはずです。今度は、意識しながら触
れてみてください。神道を通して、日本らしさとはなにかを発見していただき、それを心の柱とし
て一年間を過ごしてみると、生活リズムや季節感などを取り戻し、目に見えない恵に感謝する
自分が映し出されるかもしれません。それが日本人らしい信仰なんだと感じて戴きたいし、日
本らしさを反映した憲法や教育基本法の必要性を皆さんに感じていただきたいのです。それ
が、更なる心の豊かさや道徳心の向上に繋がり、「戦後」の終結と日本国家の「独立」がはじ
めて見られると思います。現代の理想的な社会環境が整うと思います。未来を担う子どもたち
のために、考えてみてください。
来年が、楽しく生き生きとした一年でありますように。

【家庭教育の柱】H16.10
「神様を敬い、祖先の恩に感謝する姿は家庭教育の柱です。」
と、駒形神社では謳っております。日本人としての基本は、神社に隠されているような気が
します。昔は当然生活の規範は「かみまつり」でした。その点についてちょっとお話します。
「まつり」とは「はらい」であり、「はらい」とは「神道(しんとう)」でした。
神道の重んずるところは、「清浄を保つ」、「衣食住を改める」そして「言葉を戒める」です。
「清浄を保つ」とは心身ともに清めることです。
「衣」は衣裳のこと。七五三参りや成人式でも神様に参るために日常の服とは違う衣裳を
身に着けます。神様にお参りすることは、非日常(=はれ)な事でしたので、「はれ着」を着まし
た。本来「晴れ着」を着るという事は神様に詣でるということだったのですが・・・。この頃は
この「晴れ着」の言葉の用い方が異なってきたように思われます。
「食」は食事のこと。神職は祭り前に神社の斎館という建物に籠もります。参籠(さんろう)
といいます。俗世間から離れ、忌みこもって「祭り」を「まつ」のです。斎館の清らかな火で
調理した食事を取ります。話しは変わりますが、火には清らかな火と悪い火があると
昔の人は考えました。人命を奪ってしまう火や、絆を深める火、様々です。
夫婦それぞれ違う火を用いて調理したものを食べるとうまくいかない。
例えば、お父さんは外食で、お母さんはコンビニ弁当。これは危ないです。
夫婦仲良く同じ釜の飯を食べることが絆を深めます。食事の内容も大切ですが、
同じ火を使っているかどうかが、もっと重要に思えるのです。
「住」は神社や神棚。おうちもいつも綺麗にしましょう。
「言葉」も、かみまつりを行う際は、慎みましょう。
神社ではお祭りの最中は忌詞(いみことば)を使います。
国を守る三要素は「言葉・血族・領土」と言われます。言霊信仰の日本は尚更言葉を
大切にしなくてはいけないと思います。外来語が多くなってきたこの頃、意志の伝達を果たす
はずの言葉が辞書無しには解釈できなくなってきたことは、とても心苦しいです。
「血族」は大事。天皇陛下のお蔭で守られてまいりました。もっともっと敬いましょう。
「領土」も大事。先人方が命を張って守ってくれました。もっともっと感謝しましょう。
これからは、私たちが北方領土や尖閣諸島などを守っていかなくてはなりません。
「言葉」の文化さえ守れれば日本は安泰なのですが・・・。外来語も日本語にあるものは
日本語を使いましょう。これから国際化の時代ですので、いかに日本の言葉や文化を他国に
伝えるかが、鍵となってきます。この頃海外留学する人が、日本文化研究の講義などを
受けることが多くなったのは、実は日本に住んでいながら日本の文化のことをあまり
知らなかったからではないでしょうか?もっともっと日本を知りましょう。

話がそれましたが、家庭教育の柱が「かみまつり」なのは、以上のように環境を清浄に
保つことが、生活のリズムを整え、それが子どもたちにいい影響を与えるからです。(親も)
「かみまつり」には作法があります。皆さんもしたことがあるでしょうが、「二礼・二拍手・一礼」。
これも作法です。茶道や武道のように神道にも「道」がつきます。
道には作法や形がつき物です。めんどくさい作法や形にはまる事で精神が培われます。
束縛される中で、集中力や忍耐力や協調性などがうまれます。
「道」には教えがありません。形にはまりその時代に合った精神を培うことが昔からの言われ
だと思います。仏教イスラム教には「教」がつきます。その名の通り、教えがあります。
教えを守ることも大切ですが、その時代にあった精神を培う方が重要に思います。
私たちの生きる道を見つけられる瞬間でもあるはずです。

生活のリズムが狂ってる方や、子どもの教育に困っている方は、ぜひ神社に家族みんなで
お参りしてみてください。
石原慎太郎さん曰く、
「雨の日には家族みんなで雨を口で受け止めよう」
「家族みんなではだしで大地を歩いてみよう」
「通りすがりに神社やお地蔵さんがあったら手を合わせよう」
嫌な雨の日でも、雨を口で受け止めると、雨のありがたみが実感できます。
大地の上に住めることや大地の恵を実感できます。
目に見えない力を感じることが、
「いただきます」や「ごちそうさま」の感謝の心に変わるのです。

【生死観・ケガレ・ハライ!?】
神社神道における「生死観」や「穢れ意識」などをまとめて、考察してみたいと思います。
 民俗信仰的なものを捉えてみると、「穢れ」は「生」と対立し、死へのイメージを呼び起こすも
のであり、常に生活の中で再生産されます。これは、放置してはおけないものとして、「ハラヘ
ヤル」意識が強かったものと思えます。民俗信仰の中での穢れは、身体に関わるものとして、
「糞尿・血液・体液・垢・爪・毛髪・怪我・病気・死」等であり、社会に関わるものとして「貧困・暴
力・犯罪・戦乱」等、そして自然に関わるものとして「天変地異・旱魃・風水害・病害虫・飢饉・不
漁・不猟」等が挙げられます。一定の儀礼手続きをとることにより、穢れは国境等の境にハラ
ヘヤラレます。道祖神等はバラヘヤラレた場所の標とされました。道祖神として生殖器をかた
どったものが多く存在しますが、性器は性交や体液をイメージさせます。それは、穢れなので
あり死のイメージにもつながるのです。しかし、穢れであるはずの性交や体液は、一転して妊
娠や出産へという「生」へ向かうのです。穢れの価値の逆転が存在することは、一定の儀礼手
続きをとることに成功すると、穢れの威力を逆転させて福徳の威力あふれるものとして読み替
えることができるのです。
 
 さて、「清め塩」の件に少し触れてみたいと思います。これはあくまでわたしのこじ付けではあ
りますが、述べさせて戴きたいと思います。
●穢れ=心の損傷(気枯れという方も。)先に述べたように、不浄や危険に感染することにより
心が損傷する。
●黄泉の国=葬儀の場。あえてこのように捉えてみる。
●禊祓い=心のなりあわざる所を治す。三貴子が誕生したように、生命の復活の兆しがある
(穢れ価値の逆転)。「清め塩」も「祓」の一手段と捉えられる。
 イザナギが、心を損傷し、黄泉の国から帰り、心を癒すために祓いをしたと考えれば、葬儀で
悲しくて心を痛めた人は、葬儀から帰ったら、心の損傷を治すために祓いをする。「清め塩」
で、心が癒される(気が枯れた状態から復活する。喪家以外は日常生活に戻れる)。ちなみ
に、黄泉の国を母なる祓の場(生まれてからの穢れを落とす国)と考えるとやはり、神葬祭も祓
の場であり、祓を受けて、「高天原に鎮まれとまおす」の祭詞のとおり死者の御霊は神々の国
へ遷るのであります。また神々の御恵によりその子孫が誕生します。悠久の命の継続であり、
神の世界の継続でもあります。生と死は繋がっていると考えられます。また、偉業をなした祖先
神が子孫に盛大に祀られることにより、死への不安が取り除かれるとともに、現世での活躍も
心がけることができるのです。
 
 宮中では、祭祀終了に復常行事があります。解斎を終えてはじめて祭祀終了ということにな
りますが、解斎には、「手水ののち御粥」や「祓」、「大祓」、「直会」、「和舞」、などさまざまあり
ます。この復常は、神徳を戴き日常生活に発揮顕現するためのものであったと考えられます。
この復常行事を考慮すると、「清め塩」は宮中での祭祀終了における解斎の名残とも言える
し、「死」そのものの穢れを祓うことによって、死者の御霊の徳を残された者が日常生活に発揮
顕現するものだとも言えます。死者自体を穢れとは扱っていないことが分かります。
 
 話しは変わりますが、古代の「大祓」のあり方は、基本的に年に二回行われているのに対し、
臨時大祓が注意をひきます。それは、その当時、大祀、中祀であった祭祀に際して、内裏の家
系で死者が出ると、祭祀を延期したり、廃止したりした後に、「大祓」を行っていることです。「死
→穢れ→大祓」と捉えがちですが、実は、「死→穢れ→祭祀の停廃→大祓」という流れで捉え
ることが非常に重大性を秘めています。大祓詞の中に穢れを祓うとは一言も無いことに改めて
驚かされます。神の祀りを損なったことに対し、神が怒り、その結果である「災い」を防ぐために
「穢れ」を生じさせた人間の行為「罪」を謝罪し、神との関係を確認或いは再確立することによ
って国土全体の安全と自然の循環を確保するための儀礼が大祓と規定できるのです。国家祭
祀の中祀以上に限っているところに、いかに国家が国土全体を守る意識が強かったかが伺い
知れるし、本居宣長が「ひとりの祓いにあらず、広く諸人の祓なるが故に大とはいふ也」と説い
ていることに合致もすると言えるでしょう。人の犯す罪が神の秩序を乱し、それが怒りをかうこ
とにより、天変地異、病気等の災いや穢れに繋がるものと考えれば、いかに「大祓」が重要か
わかります。神葬祭の後、「大祓」を執り行うのは、喪家が忌み期間中に神祀りが出来なくなる
に際し、神の怒りに触れないためとも考えられます。
 
 以上を考慮すると、宮中でも民間でも神前に対する心身の清浄を心がけたかがうかがい知
れます。そして、目に見えぬ神への畏怖が相当なものだったことが分かります。栽培しにくい稲
作を選んだ日本民族は、国家事業としてそれを進めるに当り、神の怒りをかわぬよう心がけた
ということを認識できるのです。天変地異や病害虫により稲にダメージを得ることは、生死の問
題に関わることであり、丁重に神に接さなければならない理由があったのです。全国稲作統合
者である天皇ほどその責務は重く、国家レベルの祭祀にいたることは必然的だったと思われ
ます。 
 最後に、本居宣長の死の対処法を挙げてみたいと思います。「一つは、死は神の仕業であり
禍事であるから、嘆き悲しむことに撤するべき。二つ目は、死は神の仕業であり、神習うとすれ
ば黄泉の国へ行くのが神の教えであるから、それに従うことで安心が得られる。三つ目は、伝
統的な魂祭りに見られるように、死後の霊魂はいつまでもこの世にとどまって、この世の人た
ちと交流し続けることによる安心がある。」
 
 神道の系列は死観というよりも生観が強く出ているように感じます。死後の世界の安心を与
えると共に、いかに今生きているときを大切に過ごさなくてはならないかを謳っていることに、生
きる「道」を感じるのであります。現代の社会問題として臨床関係や学校教育などさまざまな分
野で日本人としての生死観などを持つべきことが必要とされておりますが、その上で我々神職
方の努めるべき道も見えてくるのであります。

【教派神道って?】
教派神道ももともとは神社系統です。分かる範囲でちょっとだけ説明します。
明治6年大教院開院。神職及び僧侶合同の教導職によって国民教化へと。
明治8年3月神道事務局設置。(5月に大教院解散をにらんで。僧侶側から合同布教の反対が
あった。)
この頃から、公務員である一神職が個人葬儀をするのはおかしいのではという考えが出始め
る。
明治9年黒住派、修成派が国家より教派神道として認められる。
明治13年伊勢派と出雲派の祭神論争(宮中賢所に祭る祭神)。
明治15年神職と教導職の分離(神道の祭りと教化活動との分離)。各神社で神職の道を選ぶ
か、教導職を選ぶかの分かれ道はここだった。神道は宗教ではなく国家祭祀が基本で神職は
もっぱら祭祀にいそしんだ(言挙げせず)。それに対して教導職は教化活動にいそしみ独自の
教化を進める。近代化を進める明治政府は神社界から呪術的なものを取り去る(西洋から野
蛮と言われないように顕祭を徹底する。)。教派神道では、今までどおり呪術的神事(特殊神
事)を残している(幽祭も残すところあり。)。
明治15年5月には、神道神宮派、神道大社派、神道扶桑派、神道実行派、神道神習派、神道
大成派が認可。
同年9月神道御嶽派、明治27年神理教、禊教が認可。
明治33年金光教、明治41年天理教の十三派が国家より認可される。
大本の神道(神道)より別れた十三派を教派神道十三派と呼んでいる。

神社(神道)は戦後GHQの神道指令により国家から分離し一宗教法人となった。国民の道徳
心や愛国心を取り戻すため一人一人の神職が祭祀重視ではあるが、国民の教化も力を入れ
ている。特殊神事が復活した神社も見られる。

国家祭祀は農耕儀礼から来ていた。天皇陛下が稲作統合者である以上、全国の五穀豊穣と
国民の健康を願って国家を挙げて祭祀を営んだ(現在も陛下や勅使が訪れる神社もありま
す。)。

神社神道は、神社本庁をもととし、統一性を見せるが、教派神道は独自性が強いため、神道
とは異なる部分も多々ある(作法や装束など)。
神道には教典は無いが、教派神道には教典があるところもある。

分かりにくい説明でしたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

【「古事記」って?】
日本の古い書物に、「古事記」「日本書紀」「古語拾遺」「宣命」「令義解」「律」「延喜式」
「新撰姓氏録」「風土記」「万葉集」があります。
これらを併せて「神典」と呼んでいます。神主さん必携の書物です。なぜ、神主さんたちは古い
書物を読むのでしょうか?キリスト教の牧師さん方は聖書を持っています。神典は聖書と同じ
感覚なのでしょうか?ここで、例えを挙げてみます。

1、おうちの片付けをしていたら、ご先祖様の大事な小物入れが出てきました。引き出しを開け
ると、そこには土地の権利書が入っていました。まさしく今そこに住むことを許される契約書で
す。聖書はどちらかと言うとゴットとの契約書と言えます。キリスト教の信仰を持つことが天に召
される契約となるわけです。

2、おうちの片付けをしていたら、ご先祖様の大事な小物入れが出てきました。引き出しを開け
ると、そこにはおじい様方の日記帳が入っていました。まさしくおじい様方が歩まれてきた
軌跡、あるいは子々孫々に伝えたいことが記されています。「神典」はそのような感覚のもので
す。それは現在においても「生きる道」として活用できるのです。道徳的というか日本的という
か本来の日本らしさがいっぱい詰まっています。生きていく上で困難にぶちあたったり、自分は
何者なのだろうか?などと悩んだ時には、心の支えにもなってくれます。日本人らしく生きるの
も、日本人らしく考えるのも、基本は「神典」といって良いのではないでしょうか?

古事記には、様々な神話が出てきます。その中には日本やそこで育まれた神道などの歴史を
裏付けるものや、日本人らしくあるための道徳的要素が含まれています。神主さん方は、神典
から読み取れる日本の伝統や教え、道徳を今の時代に生かしていく職務を持っています。

【天武天皇と古事記の成立】
第37代斉明天皇は、唐に攻められていた百済からの要請で、大阪より海軍を率い大宰府を拠
点にしました。その地で崩御された後は、中大兄皇子(第38代天智天皇)が総指揮をとり、唐と
立ち向かいます。しかし、白村江の戦(663年)で大敗北を喫したことを機に、近江に都を移しま
した。天智天皇が崩御されると皇位継承の問題が。大友皇子と大海人皇子です。大海人皇子
は「大友皇子が継承すべき」と言い残し、身を案じて吉野山へ。大友皇子は天智天皇の墓を作
ることを建前に大海人皇子を討つ為の軍隊を編成しました。それを知った大海人皇子は東国
の豪族を集め、不破関(関ヶ原)にて伊勢神宮を遙拝し、いざ、壬申の乱(672年)へと。勝利を
おさめた大海人皇子は第40代天武天皇として即位。無念の最期を遂げた大友皇子を第39代
弘文天皇と記す優しさを持っていました(大日本史)。そのころ、百済滅亡の事もあり、外圧に
対抗するため日本をひとつにまとめなければなりませんでした。中央集権国家を目指したので
す。その仕事は@律令制定(飛鳥浄御原令)、A国号制定(日本)、B天皇(稲作りと祀りのつ
とめ・・・全国の稲作りの総括)、C三種の神器の継承(鏡、勾玉、剣)、D新嘗祭の斉行(即位
後の秋祭りは大嘗祭)、E国史の編纂(上古の諸事の記録) などです。『古事記』について
は、先人の想いを後世に正しく伝えようと、舎人の稗田阿礼に上古の諸事を一字一句間違い
なく暗記させました。天武天皇崩御のあと、第43代元明天皇(天武天皇長男の妻)が太安万侶
に古事記の編纂を命じました。稗田阿礼(67歳)が語るところを記す上で苦難しました。ひらが
なの無い時代、漢字を用いて日本語という異質の言語を文字化することに細心の注意と覚悟
があったのです。日本語は中国語とは違うという認識が見受けられます。苦心の末、日本独自
の「やまとことば」で記し終え、完成しました。和銅五年(712年)のことでした。日本語の書き言
葉のスタイルの創造を次の時代が来るのを待たずにやり遂げたのでした。ちなみに、『日本書
紀』は、外国向け(主に中国)に漢文でまとめられています。

【ごろあわせ】
アイヌでは、アイヌ語があってもアイヌ文字は無いのです。言葉だけの口伝えで現在まで伝えら
れています。金田一京介先生は、何とか明文化しようとアイヌの地へ向かわれました。毎晩語
りを聞きながらそれを書き留めること数日、あることに気づきました。「唄で伝承したのか?」思
わず日本最古の書物『古事記』を思い浮かべました。稗田阿礼というお婆さんが、語り部となし
て、太安万侶というお方に記してもらったのです。あれだけの長文を暗記するには、歌のように
覚えるしかないだろうと思えてきました。金田一先生も、アイヌ叙事詩と唄のように記したので
す。現在でも、ごろあわせが、日本人に定着しているのは、受験勉強のためだけではなかった
のです。昔からの言い伝えを閉ざさないために、唄やごろで覚える必要性があったと思いま
す。言霊信仰の所以も口伝えの大切さを物語っているのではなかろうか?
核家族化が進む中、口伝えが途絶えて、本当に大切なことを伝承出来ないでいる。今度おば
あちゃんの家に行ったらいっぱいお話を聞こう!!それこそが家系伝来の家宝です。

【甲申、平成16年のお話し】
本年は、「きのえさる」という60年ぶりの年です。年まわりは、破壊を意する年。日本が破滅に
向かうという年ではありません。ここ何十年かでしがらみ着いた固定観念や既成概念を打ち破
るべき年といわれています。今から60年以上前の日本人の精神をもう一度見直して進むもよ
し、はたまた、まったく新しい発想のもとで歩むもよしとなっております。ただし、これまで柱とし
てきたもの(国宗や運営指針など)を傷付けることなく、その柱の周りに付いた汚れや余計なも
のだけを破壊すること。となっておりますので、本来の趣旨は生かしていかなくてはなりませ
ん。
私としては、明治維新の時、国内を駆け巡り、国民の目を世界に向けさせた維新志士の志や
その国策として中央集権国家を目指した廃藩置県に無償で応じた地方の殿様方の武士道の
精神は忘れてはいけないことだと思います。更には、昭和に入り、その当時、アジアの中で西
欧列強からのがれ独立していたのは日本を含めわずか4国。その他はすべて植民地とされて
いましたが、その危機を打破するためにアジア独立のために立ち上がった私たちのおじいさん
たちの勇気。いずれも国のため、アジアのために尽力されたその偉業に、頭が上がりません。
戦後、個人の豊かさを追求しすぎたせいで、今更国のために尽くせなくなった国民性に(自分
に)ちょっと恥ずかしさを覚えます。
先人の精神を讃えつつ、世のため人のためになるような新しい発想を以って、邁進する事が
今年のキーワードとなりそうです。
成果が見えるのは秋の果実の実る頃。すぐに生活様式を変えてもなかなか成果が見えませ
ん。地道な努力をしてこそ秋口に「やった〜!」と思える日が来るのかもしれません。
私は頑張ります。

【節分(豆のまえは?)のお話】
 冬が去り、春がくる事を「一陽来復」という。その新春を迎える神事が節分祭である。
 節分とは現代では二月四日の立春の前の日をさす。太陽年を太陽の黄経にしたがって二十
四に分け、立春、雨水、啓蟄、春分等と名付け、これを二十四節気という。それ以外の八十八
夜、入梅、土用などを雑節と呼んだ。
 立春、立夏、立秋、立冬、をもって四季の節目とした節分は、一年に四回あったが、旧暦で
は立春は特に一年の始まりにあたった事から重要視され、節分は立春を指すようになった。
 現在は一日は朝に始まり夜に終わるが、昔は夜が一日の始まりだった。このため節分の夜
と立春の朝は同じ日だったが、時間の観念に対する日本人の変化から、 節分は立春の前の
日になった。立春は新しい年の初め、 すなわち新年の元旦であった。ということは節分は一年
の終わり、大晦日だったのである。 
 節分は実は大祓の神事で一年を前半と後半に分けて、その最後の日に罪や穢れを祓うもの
だった。大祓は六月と十二月の晦日(つごもり) に、親王以下在京の百官を朱雀門前の広場
に集めて、万民の罪穢を祓った神事であった。
 そして節分の豆撒きは、昔の追儺(ついな)または鬼儺(おにやらい)といった。 これも大晦
日の夜、疫鬼を祓うために宮中で行われた儀式から来ている。これは疾病の鬼に扮した人を
追い払うもの。その起源は中国で、周の時代、 方相氏(ほうそうし)という官職の者が、4つ目
の大きな面をかぶり、赤い着物をつけ、 矛と盾を持って、悪魔を祓った。漢の時代には、これ
に桃の弓にいばらの矢が加わり、 赤頭巾をつけた沢山の子供が参加するようになる。これが
そのまま日本に持ち込まれた。朝廷では大舎人寮(おおとねりりょう)の舎人が 鬼の役になり、
大舎人長が4つ目の面をかぶり矛と盾を手に赤装束で、方相氏の役目をし、 この後ろには百
人の子供がしたがった。方相氏が鬼儺の詞を唱え、矛と盾を三回打つ。すると群臣が唱和して
桃の弓、葦の矢、桃の枝でもって、内裏の四門をめぐって、 逃げる鬼を追い回し、退散させ
た。こうした方相氏が主役を勧める追儺は、平安初期から盛んに行われていたとみえ、 文徳
天皇の天安二年(八五八)四月二十五日の『日本文徳天皇実録』には 「夜、大舎人寮に火、
追儺方相氏の装束一時滅却す」とあって、大事な追儺の装束が火事で 焼けてしまったことが
でてくる。そして日本における追儺の始まりは、文武天皇の三年(七0六)だと『続日本紀』はい
う。いまの奈良県橿原市に都が置かれていた藤原京時代である。「この年、全国に疾病がは
やり、 人民が多く死んだ。そこで初めて土牛を作って大儺(おおやらい)をおこなった」とする。
この土牛については、陰陽寮式に土牛と童子らの像を、大寒の前の日の夜半に 皇居の諸門
に立て、立春の前夜に撤去するとあり、追儺のためのものである。 
 追儺式は室町時代になると、宮中から公家、武家の上流社会、また神社やお寺に広まる。
それと共に、鬼を追い出す小道具が変化しだす。それまで悪魔を払う力があるとされてきた
桃への信仰がすたれる。桃は鬼退治する桃太郎の童話象徴するように、鬼が最も嫌う果実だ
った。『古事記』が 語るように、死んだイザナミが、夫イザナギにうじ虫わく醜い顔を見られたこ
とを怒り、 鬼に追いかけさすが、この時、黄泉の国から必死に逃れるためイザナギが、鬼を振
り切るために 投げ付けてきたのが、この桃の実であった。桃には百鬼を防ぐとの思想が中国
から入ってきていたのである。
 その桃信仰がすたれ、変わってでてきたのが大豆だった。桃がすたれると、宮中の追儺もす
たれる。これは戦乱による公家文化の崩壊と、無関係ではない。そして豆による追儺の広がり
は、武家社会の発展、これに続く庶民の文化の発達によるといえる。節分に豆を撒いて悪魔を
祓う事は、江戸時代になって盛んになりだす。桃から大豆へ。 大豆は「畑の肉」といわれる。こ
の豆を炒って「鬼打豆」と称した。
 「鬼は外、福は内」といって豆を撒く。「鬼は外、福は内」の言葉は『臥雲日件録』に出てくる。
文安四年(一四四七)室町時代。その十二月二十二日に、明日は立春なので黄昏に及び、部
屋ごとに炒り豆を撒いたとあり、 「鬼外福内」の四字を唱えたと書いてある。

【ひなまつりの歴史】
 ひなまつりは、五節句の一つで上巳(じょうし)の節句といい、桃の節句・雛の節句とも呼ばれ
ている。上巳の節句は、もともと中国唐の時代の風習が日本に伝わったもので、3月初めの巳
の日に水辺に出て不祥を除くための禊(みそぎ)・祓(はらえ)を行い、宴会を催して祝したの
が、後に3月3日に行われるようになった。
 日本には、古代から贖物(あがもの)という人形(ひとがた)に自分の罪を託し、人形を肌身に
すりつけ、息を吹きかけ、水辺に棄て流す習慣があった。この上巳の祓の人形は、やがて流し
雛ばかりでなく飾り雛も作られ、「ひな遊び」という平安時代に幼女が可愛らしい人形で遊ぶ風
習とが結合して後の「ひなまつり」の雛人形となった。そして、江戸時代になると平安時代の宮
廷の階層をまねた雛段を作り、飾り立てる「ひなまつり」となっていった。
 こうした雛遊びが、3月3日に雛人形を飾って祭り遊ぶ「ひなまつり」となったのは、江戸幕府
がこの節日を五節句の一つとして制定したことにも一因があり、上巳の祓の形代(かたしろ)と
しての人形が棄てられずに保存され、3月3日に娘の幸福を願って飾るという風習がようやく上
下にゆきわたり、幕末には京都とともに江戸でもこうした「ひなまつり」が隆盛となり、さらに雛
市や雛売りなどの商売も起こって江戸市民の間に広がり、明治・大正へと盛んになっていっ
た。

【むずかしい教育基本法のおはなし】
 日に日に暖かくなり、もう時期入園入学式の季節を迎える。
 教育基本法は、現行憲法の施行、安保条約の締結と並んでアメリカ占領軍による占領統治
の一環としてつくられたもの。したがってその性格は、日本軍国主義を根絶して「平和愛好で民
主的な」日本人をつくることにあった。しかし日本の教育改革についての一見理想主義的な目
標の裏面に、伝統破壊によってアメリカにとって都合の良い日本に作り変えるという現実主義
的な政策があったことは言うまでもない。平和憲法で軍事力を放棄させておいて、アメリカ軍が
実効支配したのと同じことである。そんな占領統治の教育政策が戦後60年近くなっていまだ
に改正されていないとは驚くが、これはひとつには教育公務員、マスコミ界、教育学界などにも
ぐりこんだ左翼勢力の策動によるものかもしれない。
 だが教育現場でも、そうした硬直した伝統否定に疑問を持つ人々が増えつつある。新しい観
点から歴史と伝統を見直してゆこうとする試みも根を広げ始めている。
 ある小学校の授業で「武士の忠義」というテーマを取り上げたところ、子供たちは大変興味を
示し、活発な反応があったという。武士の道徳として説かれた忠義は、単に主君の恣意に従う
ことではなく、「公」のために身を捨てることである。「公」の体現者たるべき主君が「私」にふけ
って「公」を忘れている場合、家臣はどうすべきか。諫めるか、主君押し込めという主君の強制
隠居であった。つまり武士が命を懸けて仕えるのは「公」なのである。この精神は明治になって
も生き続け、孫文は「日本国民には公の観念がある。残念ながら支那の民にはそれが希薄で
ある。」と嘆くほどだった。戦前戦中にすでに政党の腐敗は極まり、軍部の官僚化が進んでい
たが、戦後は建前としての「公」さえ放棄して「個」だけが持ち上げられた。「公」に根差さない
「個」は「私」に過ぎない。私人の寄り集まりはただの集団であって国家にはなりえない。新しい
教育基本法の眼目は私人ではない国民を育てることにある。それを国家主義とか国際化時代
への逆行だというのは見当違いに思える。
 未来を担う子供たちに貢献の心を伝えるには、教育基本法を見直すことも大事だが、大人
が心して行動しなくてはならない。

【鯉幟のお話】
 端午の節句は、奈良時代の頃から行われている古い行事。端午というのは、五月の初めの
午(うま)の日という意。それが江戸時代、五月五日に固定された。 
 奈良・平安時代の端午の日は、厄災を避けるための行事が行われる重要な日だった。宮廷
ではこの日、軒に菖蒲やよもぎを挿し、臣下の人々は菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉の薬玉
を柱に下げる等した。
 鎌倉時代には、武家の間から菖蒲と尚武をかけてこの日を大切にする気風が生れた。
 江戸時代には、端午は幕府の重要な式日となり、大名や旗本は江戸城に出仕し将軍にお祝
を述べた。将軍に世継が生れると、城中にたくさんの幟や鎧、長刀、兜などを立てて盛大に誕
生を祝った。 
 江戸中期になると庶民の間から町民のアイデアで鯉のぼりが生れた。中国に古くから伝わる
登竜門の伝説になぞらえ、竜門の滝を登り切ると鯉が竜になるように、我子も健康に育ち、将
来は大きく出世して欲しいとの気持を込めたもの。この頃は和紙に鯉の絵を描いたものだった
が、大正時代に破れない綿の鯉のぼりが生まれ、昭和三十年代の半ばには雨にぬれても色
落のしない合成繊維の鯉のぼりが誕生し、現在に受継がれている。 
 いつの時代も子の成長を願う親心は変わらない。育て方はいろいろあるであろうが、立派な
大人に成長させることが、日本の未来のためとなるであろう。
がんばれおとうさん・おかあさん。

【若返りのお話】
 日本古代の人々は、季節ごとにお祓いをしていました。節分祭や雛祭もそのひとつです。中
でも、大祓式は年2回(6月末夏越の大祓式、12月末年越の大祓式)行われる奈良時代から
現在に至るまで続けられている神事で、とても重要とされていました。それは、新年が始まっ
て、日の長さが夏至を過ぎて折り返すと、リズムが変わります。その半年間で身についた罪穢
れを祓うのが大祓式。リズムを取り戻します。新年には瑞々しく張りのあった「気」がだんだん
枯れていく事を「気枯れ」=穢れと古代の人は考えていました。
 身内の人が亡くなったりすると、50日間は神社にお参りしないことが昔からの慣習でした。
気持ちが枯れた状態で神様にお会いするのは礼儀を逸するからだと考えていました。葬儀の
帰り、自宅前で塩を使って清めるのは、自分の気枯れた状態を通常に戻すためです。決して
亡くなった方が穢れているからではありません。
 「気」は枯れっぱなしではなく、お祭り(神事)をすることによってご神気や生命力を補給して甦
るのです。時間は後戻りしないという宗教もありますが、日本古代の人々は、お祭りによって命
や時間が若返るという考えがありました。物理的には時間はただ流れていくだけですが、気持
ち的には時間も若返るのです。年越の大祓式を経て、お正月を迎えた時、神様〈お年神様〉か
らひとつ歳を戴きますが、心機一転、時間と生命力の若返りも戴きます。瑞々しい張りのある
「気」でスタートを切るのです。家の長が新年の朝に初めて汲む水を「若水」と言い、その水を
飲むと新年の生命力を授かって、人や家々の命がよみがえると言われています。すなわち、
若返った「時間」の息吹を授かる儀式なのです。
 世界中に日本の祭りに似たカーニバルがあります。その共通点は、日常の生活で人間は気
が枯れますが、それを回復させるのは「祭り」と考えていることです。日常的な行動ではどんど
ん枯れるだけの「気」が、非日常的な行動をとることで若さを取り戻せるのです。非日常のこと
を「ハレ」といいます。古代の人々は、神社にお参りすることを非日常=「ハレ」と考えており、
特に神社に着ていく服装を「晴れ着」といいました。今日でも見られる非日常的な行動は、お正
月に、門松をたてたり、羽織袴を着たり、しめ縄、餅つき、凧あげ、カルタとり等です。
 日常生活に疲れている方、ぜひ若返りをして、日本文化の素晴らしさを心身で感じとる事も
良いのではないでしょうか?

【日本の文化】
駒形保育園の畑で、サツマイモが収穫時を迎えました。大根も小柄ながら元気に生長していま
す。キャベツも日照不足ながらも身が引き締まりいい感じです。
社会情勢も日が差さず、日照も不足しているときだからこそ、古事記に出てくる「天の岩戸」を
思い起こして『祭祀』を盛大に且つ心を込めてしなくてはならないのかもしれません。
日の神様(天照大御神)が隠れるということは、世の中が真っ暗、つまり混沌を意味するもので
す。困った天上(高天原)の神様方は、解決策として神々が一致団結し、祀りを行ったのです。
これが神宮を始めとする各神社の祭祀の原点となっております。古事記には、私たちが生活
する上での大切なことが記されています。道徳や生活、信仰などなど日本民族の考え方がぎっ
しり詰まっています。
『報本反始』私たちのご先祖様の神々から戴くお恵みと功に感謝し、常々根本に返る。日本人
にはどんな悪況でもその心を支えてくれる精神文化があります。日本人みんなに気づいてもら
いたい。と思うのは私だけでしょうか?

【自然崇拝】
その昔、山自体をご神体として崇敬してきた日本人。そのほか海や樹木など様々です。自然を
崇敬していたといってよいと思います。自然とともに生活し、その中に神々を見出してきた日本
人。とても神秘的な民族だと思います。森林率66%世界トップクラスの森林国です。ちなみに
カナダ(50%)、アメリカ(37%)、ブラジル(57%)です。これは誇るべきことであって、守って
いかなくてはならないことでもあります。神様の宿る森は、『杜』と書きます。鎮守の杜ともども
自然を大切にしましょう。
さてさて、霊峰を登山して「この山を制覇したぞ〜」なんて言ってはいけません。神様を制覇し
たなどと言ってはばちが当たりそうでとても恐い事です。

【ルーツ】
自分のルーツを探ることは、自分の進むべき道を探すのと同じくらい重要なことだと思います。
私たちは、両親から生まれ、両親は祖父母から生まれ、祖父母は祖祖父母から。私たちの祖
祖父母は8人いるわけで、その上は16人、その上は32人、その上は64人・・・。30世代さか
のぼると、1億人を越えるご先祖様がいるわけです。そのご先祖様ひとりひとりの想いが私た
ちの体のなかに密かに佇んでいるのかもしれません。だから、ご先祖様(神様)を大切にして、
その想い(使命・宿命)をつかみとり、一生懸命生きていかなくてはならないのだと思います。
子孫に「うちの先祖はえらいんだぞ」と言ってもらえれば最高ですよね。

【イラクへの自衛隊派遣について】
「敬神護国」神を敬い、国を守るという信念が、戦後より薄らいできている今日、もう一度日本
の歩むべき道を再認識する時に来ている。理想の道、神の正道を見出せるのならば、世界中
の国々がなんと言おうと日本は信念を貫くべきである。ここ数十年、諸外国の政治的圧力によ
り、信念を妥協したり曲げたり・・・、寛大な心を持つ我が日本民族も限界に来ている。
大和魂を忘れてはいけない。武士道の心を忘れるわけにはいかないのだ。
今問われるのは、戦争に行くのか行かないのかではない。イラクを助けるか助けないかだ。世
界の共存共栄を祈る日本としては、助ける道を選ぶだろう。
しかし、政党によってその手段方法は異なる。今だけを見る政党、20年後を見つめる政党、
金だけを考える政党、いろんな視点がある中で、世界にとって有益な方法を見出すことを各政
党に期待する。私益のために国を動かすことが一番危ない。おおやけの心を一時たりとも見
失ってはいけない。

【言葉遣い】
天皇皇后両陛下がお亡くなりになった場合は、「崩御(ほうぎょ)」、
ご皇族がお亡くなりになった場合は、「薨去(こうきょ)」、
身内が亡くなって、案内を出すときは、「死去(しきょ)」、
弔電などを出す場合、死亡を敬った言い方「逝去(せいきょ)」を使います。

「あげる」もともとは、神様や目上の人に使う言葉。
「犬にエサをあげる」「植木に水をあげる」はどうもおかしい。そこまで自分を謙譲しなくてもいい
ような気がします。「えさをやる」「水をやる」でいいのです。が、どうも私も現代語に染まってし
まいました。「水をあげる」のほうがかわいらしいかなぁなんて。




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