「男の人って,どうしてサイズにこだわるのかしらね」とは,映画『タイタニック』でケイト
= ウィンスレットが演ずるヒロイン・ローズのセリフである。
県境をはさんで東成瀬村と隣接する岩手県胆沢町にて建設が進められている「胆沢ダム」は,堤体積が日本最大級のロックフィル式ダムだった。「だった」というのは,いつの間にか堤体積が1500万立方メートルから1350万立方メートルに縮小されたから(堤高や総貯水容量は変わっていないようだが)。
現在計画・進行中のダムで国内最大規模なのは,岐阜県の徳山ダムと滋賀県の丹生ダム(いずれも1390万立方メートル)で,胆沢ダムは現状では三番目の規模となる。東北ではむろん,群を抜いた巨大さといえよう。ちなみに成瀬ダム堤体積は1196万立方メートルで全国第五位,東北では二番目である。
胆沢ダムは計画が発表されて以降,これといった反対運動もなく“順調”に進行している。公共事業に対する風当たりが強まる中,岩手県では北上市の県営北本内ダムが中止になるなど,「脱ダム」の流れは一定の速度を保っているようにみえるが,国土交通省直轄胆沢ダムはだれも疑問をさしはさむことなく,本体工事も間近に作業が行われている。
盛岡市の梁川ダムや気仙郡住田町の津付ダム(いずれも県営)は,県がまとめた水需要計画のいいかげんさが市民団体から指摘されて計画の見直しが行われているが,胆沢ダムでは上水道計画をめぐって受益者たる周辺市町村の間で足並みの乱れがみられること以外は,大波にさからう巨大軍艦さながらに進行の霧笛が鳴り響いている。
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胆沢町に現存する石渕ダムは,1953年に完成したロックフィル式ダムの元祖ともいうべき存在で,胆沢地方の田畑をうるおす,農家の救世主だったはずだ。
しかし,食糧増産の掛け声のもと農業の効率化がすすみ,並行して農業用水の不足が深刻化,雨のすくない年は番水制がしかれ、農家から「新たな農業用ダムを」との声が高まり、胆沢ダム計画がまとまったのである。最初は石渕ダムのかさ上げから運動がはじまり,石渕ダムの下流に新ダムをつくることで具体化,1988年事業着手,90年に基本計画が告示され,住民の補償交渉を経て93年に着工した。
いうまでもなく胆沢ダムは多目的ダムだ。総貯水容量1億4300万トンのうち5100万トンが洪水調節で,利水は8100万トンとパンフレットにある。1999年に建設省(当時)胆沢ダム工事事務所を私が訪れたとき,応対してくれたI副所長は洪水対策を中心に胆沢ダムの必要性を説いたが,もともとは農業用ダムからスタートしたのである。「洪水が怖いからダムを」という声があったかどうかはともかく,国土交通省としては胆沢ダムの主目的を「治水」に置いていることは明白だ。
もうひとつの柱である利水,その大部分を占める農業用水についてもI副所長は,胆沢ダムがいかに水不足を解消し,農家に貢献するかを語る一方で,戦後最悪といわれる93年の大冷害で胆沢地方の農民が大打撃を被ったことに触れると,「当時は別の勤務地にいたからこの辺りのくわしい内情はわかりませんが,水位管理など農家の努力が足りない面もあったのでは」とチラリと本音をのぞかせていた。ダムがあろうと水が足りようと天気が悪ければコメは実らない。冷害の不作は日照りの不作とは比較にならない。あのころ胆沢町の農家は「こどしのコメの出来は,二割だ」と吐き捨てるように言ったものである。
私ごときハナタレ小僧ひとり相手に時間を費やし,旧穴山堰の見学までさせてくれたIさんには感謝しているが,胆沢ダムの疑問を封印するわけにはいかない。通りすがりにのぞいてみた胆沢ダムの横顔を報告しておきたい。
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一部開通した国道397号の付け替え道路は,栗駒国定公園焼石地区の森を切り崩して工事が行われている。廃村となった旧石渕地区から付け替え道路に上がっていく途中で,ダム本体の基礎工事現場を望む。森吉山ダム現場でみたのとおなじ巨大な46トン車が,ヘッドライトを点灯して土砂を運んでいく様子が見えた。あの土砂はダム左岸斜面から吐き出された土塊だろう。
(↑ダム左岸の基礎工事現場)
左岸に穿われた国道トンネルを抜けるとダム左岸の頂上付近の現場だ。削られたのり面に緑化用の黒土を吹き付けた段差を一,二,三と数えると……頂上まで11段のヒナ段をつくっていた。この下のあたりから,堤頂長723メートルの胆沢ダム本体があちらまでつながることになるらしい。
(↑左岸の頂上付近)
道路は途中から旧道へ下りる。バイパスと旧道との連絡道路にすぎない「望み大橋」は,胆沢川に架けられたこれまた立派な橋だ。なにせ胆沢ダム事業費は2440億円。当初見込みでは1360億円と,成瀬ダム(現時点で1550億円)より少なかったのだ。森吉山ダム事業費が1000億円弱から1750億円に膨張したことは先のルポで書いた。橋の向こうには近い将来に巨大な岩石の集合体がデデーンとそびえるのだろう,46トン車がここでも砂塵を巻き上げながらのそのそと移動していく。夕暮れどきのダム工事現場は,土ぼこりで石渕ダムがかすんで見えた。
(↑「望み大橋」とダム工事現場の一部)
胆沢ダムもまた,国土交通省の「地域に開かれたダム」のモデルケースなのか,『胆沢ダム学習館』なるPR施設が397号沿いに建っている。森吉山ダムにおける『広報館』と似たようなものか。あれよりはこじんまりとした感じだ。入口におっかない顔した警備員もいないし。
(↑胆沢ダム学習館)
胆沢ダムは,焼石岳ふもとに造られる。栗駒国定公園焼石岳は標高1548メートルの休火山で胆沢川の水源をなす。胆沢川といえば水質が東北でトップ,全国でも6位の水準を誇る「きれいな川」だ(BOD値)。石渕ダムがありながら胆沢川が清流を保っているわけは,尿前(しとまえ)川が石渕ダムの下流にあるから。胆沢川そのものはダムでガッチリせき止められているが,尿前川は自然のままに流れている。胆沢川は尿前川に“救われて”いるのである。で,胆沢ダムは尿前川の下流に造られるので,尿前川もまたダムによって“殺され”る運命にある。その後の胆沢川がどうなるかは神のみぞ知るというところか。
1996年に焼石岳へ東成瀬側から登ったとき,九合目・焼石神社のあたりで見た光景に凍りついた。湯田町の1000メートル級峰中腹に林道がざっくりと通っていて,視界を汚すことおびただしかった。八合目の焼石沼で,あまりの景色のすばらしさに感動で震えながら,高山植物の咲き乱れる登山道を登りつめたあとの“惨状”だっただけに,あのときの衝撃はいまも忘れられない。『学習館』の中に貼り付けられた高山植物の写真パネルをみながら,ああいった林野行政の負の遺産もここに展示しておけばおもしろいのに――と考えた。乱伐とスキー場開発でズタボロにされた森吉山といい,たとえばわが国の登山好きな皇太子さんは,あのような山に金輪際,登ることはあるまい。どの道焼石岳も森吉山も忘れられた山なのだろう。
めがねをかけた知的美人の案内嬢につらつらと話を聞いた。作業に使われる46トン車は,解体された状態でトレーラーで運ばれてきたという。泥水を漉すためのプールのことや,旧石渕地区のことなどを親切に話してくれた。コスプレと見まごうような真っ赤なスーツに身をつつんだ案内嬢いわく「46トンのダンプカー台数ですか? 12〜3台じゃないでしょうか」。重機のミニチュアそばにある資料には「46トン車台数18台」とあった。
胆沢ダム建設にともない,石渕地区から移転した世帯は79件という。石渕ダムの建設においても,移転を余儀なくされた家屋は少なくない。その多くは石渕ダムそばに居を構えた住民である。石渕ダムで立ち退いた住人は,胆沢ダムというさらなるダムの前にふたたび移転をせまられた。かつて,血も涙もない役人に土地収用法をちらつかせられ,泣く泣くふるさとを捨てた苦渋の過去を背負った住人たちである。胆沢ダムなにするものぞ――という気構えで補償交渉に臨んだのだろう。
補償交渉は,きわめて円満に済んだ。
胆沢町の国道や役場周辺を歩けば事情はかんたんに理解できよう。ひと目でそれとわかる“ダム御殿”が目に付くからだ。敷地内に仰々しい神社を建てた屋敷さえある。もっとも移転補償など,ダム事業費全体からすれば二束三文にすぎないが。
胆沢ダム建設地を中心にした模型が,フロアの真ん中に置かれている。ボタンを押すと明かりがついて,砕石山などの位置がわかるようになっている。胆沢ダムの堤体につかわれるロック(岩石)は,当初は石渕ダム湖ほとりの猿岩から採取される予定だったが,猿岩が猛禽クマタカの高利用生息域であることなどから,大森山という北部の山に変更した経緯がある。クマタカを守るためではなく,クマタカが生きられる自然を維持するのがその理由である。当然といえば当然だが,成瀬ダムで同様のケースが発生した場合,国土交通省は狐狼化山に手をつけずそっとしておいてくれるだろうか。
模型の大森山部分は脱着式になっていて,ダム完成後の大森山の姿もみられるようだ。案内嬢にお願いして撮影させてもらった。
(↑案内嬢が手にしているのが原石山の模型)
(文責 M.H )
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