ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国 
(Republic of Bosnia and Herzegovina) 
1998年に現在のデザインに改められた。
■簡易データ
首都 サラエボ 52.9万人(91年)
面積 5.1万平方キロメートル(日本の約1/7)
人口 448.4万人(日本の約1/28)
人口密度 88人/平方キロ(95年)(日本の約1/4)
主要都市人口 バニャルーカ 19.6万人 モスタル 12.7万人
平均気温・年降水量
サラエボ −0.9度(1月) 18.7度(7月) 920ミリ
国民総生産 107億ドル(日本の約1/460)
一人当たりの国民総生産 2454ドル(90年)(日本の約1/16)
言語 セルビア語 クロアチア語
民族 スラブ系イスラム教徒(モスレム人)43.7%
   セルビア人31.3% クロアチア人17.3%
宗教 イスラム教 東方正教(セルビア正教) カトリック
通貨 ボスニア・ディナール ユーゴ・ディナール クロアチア・クーナ
エネルギー消費量(石油換算) 89万トン(94年)(日本の約1/500
一人当りのエネルギー消費量 251キログラム(日本の約1/14)
以上大凡95年統計

■地理と気候
ヨーロッパ大陸の南東部、バルカン半島に位置する。
北、西、南部はクロアチア、東部はユーゴスラビアと国境を接する。
南部、アドリア海沿岸に沿って、ディナルアルプス山脈が走り、カルスト地形が発達している。
国土の沿岸部近くより、地中海性気候、温暖湿潤気候、西岸海洋性気候となっていく。
内陸部の冬の寒さは厳しい。

■略史
旧ローマ帝国の属領の一部。
7C頃より、南スラブ民族が定住し、キリスト教を受け入れる。
ブルガリア、東ローマ帝国の支配を経て、12Cにはセルビア王国の領土に。
14Cよりオスマン‐トルコの侵略を受け、1463年、ボスニアが、83年ヘルツェゴビナが征服される。
19Cまでの長年のトルコの支配により、イスラム教への改宗が多くなる。
1878年、ベルリン条約によって行政権が、ハプスブルク帝国に移行。
1908年、正式にハプスブルク帝国に併合されるが、それに反発したセルビア愛国主義者によって14年、皇太子夫妻暗殺事件が発生。(サラエボ事件)
これがきっかけで第一次世界大戦に突入。
大戦後、セルブ・クロアート・スロベーヌ王国の一部となり、29年にはユーゴスラビア王国と国名を変更する。
第二次大戦後、王制は廃止されユーゴスラビア連邦人民共和国の一構成国となる。
91年10月、主権国家を宣言、92年2月にはモスレム人とクロアチア人の指導部が共和国独立の国民投票を実施。(セルビア人はボイコット。)
3月に独立を宣言し、これをきっかけに内戦は本格化。
その後、セルビア人は北部に「ボスニア・セルビア人民共和国」を、クロアチア人は「ヘルツェグ・ボスナ・クロアチア人共和国」をそれぞれ樹立。
「民族浄化」の名の下に、泥沼の内戦状態へ。
94年3月、モスレム人、クロアチア人両勢力で連邦国家樹立で合意。
95年夏よりNATOによりセルビア人勢力への空爆が実施される。
12月、和平協定が調印され、ボスニア・ヘルツェゴビナは主権国家として存続を確認し、セルビア人共和国も含んだ統一選挙を約束。
96年9月、モスレム人勢力のイゼトベゴビッチが国家元首に選出される。
翌年、欧米の後押しを受けたセルビア人代表のボシッチ氏も共同首相に就任するも、セルビア人強硬派との対立はつづいている。
■入国
ヴィザは不要。
日本からの直行便はないため、ヨーロッパ系航空会社の経由便で行く。
また、クロアチア、ユーゴから陸路での入国も可。
■日本公館
ボスニア・ヘルツェゴビナ大使館 Embassy of Japan Mula Mustafe Basekije 2,71000 Sarajevo,Bosnia and Herzegovina.
 387―71―209―580