しおがま神社奉納土俵入り 東関部屋力士 紀ノ川関と村田関
元和9年(1623) 水沢公園内、後藤新平銅像東側に羽黒派の修験者丹誠が荒廃した愛宕社
を再興した。この頃よりこの地を愛宕が丘と呼ぶようになった。
宝暦5年(1755) 塩釜邑(現水沢市)の亀屋五左エ門が、京都四条の仏師中川権之亟景政
彫刻の阿吽二対の仁王像を、愛宕社門両脇に奉納した。現在、長光寺山
門に安置されている。
明治10年(1877) 夏愛宕社に伊勢の天照皇大神のご分霊を勧請した。
明治42年(1909) 9月荒廃した愛宕社の跡地に、日清戦争、日露戦争、北清事変、第八師団
雪中行軍で祖国に殉じた戦没者英霊を祀る招魂社を創建した。管理運営
は軍人分会があたり、4月30日を例祭日と定め、軍人分会、遺族、学校生
徒、その他諸団体の参列により祭儀斎行。祭典終了後、在郷軍人による
銃剣術や撃剣の奉納試合を開催したり、大名行列や珍妙奇天烈な仮装
行列など繰り出し大変な賑わいを見せた。
昭和20年(1945) 8月大東亜戦争が終結し、12月にGHQが日本政府に国家神道の禁止と政教
分離を徹底的に実施することを発した。神道指令により軍人分会の管理運 営も出来なくなり、次第にご社殿は荒廃していった。
昭和29年(1954) 4月 1町(水沢町)5村(佐倉河村、真城村、姉体村、羽田村、黒石村)合併に
より水沢市となり、旧村部の英霊を合祀し、以後「水沢招魂社」と呼ばれる ようになった。
昭和35年(1960) ご社殿修理。
昭和42年(1967) 軍恩会(元軍人恩給会)遺族会、傷痍軍人会の有志によりご社殿ご造営計
画が立案された。
昭和43年(1968) 上記団体の他、岩手県護国神社奉賛会水沢支部、水沢市社会福祉協議
会、水沢市主婦連合会、駒形神社総代会などの団体が加わり水沢招魂社 御造営推進委員会を結成した。
駒形神社側の理解を得、同境内のご神門内鹽竈神社の北東(現在地)にご
社殿のご造営を計ることに決定し、同委員会の委員長に駒形神社総代長 兼水沢市区長協議会会長の佐々木勝雄氏が就任した。早速ご造営資金捻 出のための浄財を募る奉賛活動に入り、多くの市民の協力を得た。
昭和44年(1969) 9月 地鎮祭、 12月 立柱祭斎行。
昭和45年(1970) 2月 上棟式、 7月 御祭神1087柱のご遷座祭斎行、
8月 竣工式典挙行。
昭和46年(1971) 8月 水沢招魂社ご造営報告書を提出。(募金総額466万円、総事業費460
万円、内ご造営費320万円)
12月 遺族会、軍恩会、傷痍軍人会、駒形神社総代会の組織による水沢招
魂社奉賛会を設立した。会則を制定し初代会長に佐々木勝雄氏が就任し た。
昭和47年(1972) 2月例祭日を4月29日(昭和天皇誕生日)に変更した。
昭和52年(1977) 9月水沢遺族連合会「靖友会」が結成され、初代会長に佐々木勲氏が就任。
昭和57年(1982) 第二代会長 水沢市区長協議会会長 菊地寛氏就任。
昭和60年(1985) 例祭日を7月10日に変更。
平成2年(1990) 6月 第三代会長 水沢市区長協議会会長 加藤次信氏就任。
7月 ご造営20周年記念大祭斎行。遺族の転入などにより、
ご祭神12柱を合祀し、1099柱となる。祭典終了後、神賑わいとして流東和町
早池峰地獄流「石鳩岡神楽」と民謡ショーが盛大に奉納された。又、記念事 業として拝殿前両脇に紅葉を植樹した。
平成4年(1992) 4月第四代会長 水沢市区長協議会会長 大坂一三氏就任。
平成5年(1993) 5月時代の推移に伴い、水沢招魂社奉賛会会則を全面改正した。
7月10日の例祭日は梅雨期で雨天になる率が高く、又、鹽竃神社の本宮 宮城県塩釜市の鹽竃神社の例祭日とかち合うため、昭和20年6月2日西ニ ューギニア、ビアク島で水沢出身者最多数戦死された日に因み6月2日に変 更した。又、祭典案内のポスターを作製し、新聞に広告を載せ一般の参列 を呼びかけることにした。 平成12年(2000) 4月第五代会長 古玉裕一氏就任。 平成17年(2005) 4月第六代会長 水沢南地区自治振興会会長 橋照治氏就任。 平成19年(2007) 入会のしおり作成。遺族が少なくなる中、祭儀、社殿等維持のため、 奉賛会一般会員を募る。 平成24年(2012) 12月招魂社参道拡幅。 平成25年(2013) 傷痍軍人会解散。 平成26年(2014) 4月第七代会長 佐々木高行氏就任。
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